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---------------------------- 2005/05/01 管理人

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『隠された記憶』 透明なカメラ

隠された記憶 画像メイン『隠された記憶』では隠しカメラを仕掛けた犯人が隠されている。監督のミヒャエル・ハネケ自身も犯人が誰であるかというコメントはしていない。しかし劇場予告やチラシでは「衝撃のラストカット」のことがしきりにアピールされているから、良心的な観客ならば誰でも犯人の姿を求めて、あの不意に訪れるラストカットを凝視するだろう。警察の鑑識捜査員になったような気分で、監視カメラ風の定点観測映像からヒントを見つけだし、容疑者につながっている糸を手繰っているかもしれない。私には鑑識の才能がないらしく、巷のブログで優秀な鑑識の皆さんが見つけたような重要証拠に辿り着くことはできなかった。そこで負け惜しみのようだが、ここでは「衝撃のラストカット」に映っていた(という噂の)ふたりの若者をキーにした犯人探しは横に置いといて、観客をして鑑識捜査員として物語の共犯者にしてしまった、「犯人隠し」の鮮やかさについて考えてみた。

隠された記憶 画像サブ1端的に言えば、隠しカメラを仕掛けた犯人の隠蔽は、隠しカメラ自体の完全な隠蔽によっている。そしてそれはリュミエール式(?)映画が成立する仕組みを利用してなされている。つまり、カメラ、フィルム(ビデオテープ)、プロジェクタ(テレビ)という装置が独立して働き、撮影、編集、上映のプロセスが独立した次元で成り立っている、映画の仕組みそのものだ。映画館で上映される時にはカメラもフィルムも姿を消し――撮影者や編集者や上映者も見えないはずだ――私たちが触れる眼前の映像は、プロダクションの過程などもともとなかったかのように、ただそこにありかつここではない一連の世界なのだ。

隠された記憶 画像サブ2だから夫婦は隠しカメラの存在を恐れ、撮影者を特定しようとするのだが、決してカメラの設置してある場所へ押し入ったり、カメラの裏側へまわって撮影者をふん捕まえたり、カメラ目線で合図したり、そういう野暮なことはしない。カメラや撮影者は存在を消して、単なる視線として、抽象的な地位を保ち続ける。

それは時には監視カメラの視線だろう。時には夫ジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)の隠された記憶や、妻アン(ジュリエット・ビノシュ)の不倫の後ろめたさを冷たく見つめる、彼ら自身の内面から出たやましさという視線だろう。またはフランス人が抱くアルジェリア人への歴史的なやましさという視線かもしれない。カメラ隠蔽による抽象的な視線が、ある映像を特定の人が見ることで特別な意味を生むというあたりまえの現象を明らかにして、この映画を豊かなものにしている。

隠された記憶 画像サブ3こうして監視カメラの映像は抽象的な視線として、登場人物の内面的な視線に置き換わることができた。そしてまた映画の上映時にはさらなる意味を生み出す。つまり映画館では撮影時カメラがあった場所にプロジェクタが置き換わり、撮影者がいた場所には観客が座っている。この構造のために結果として監視カメラの抽象的な視線は観客の視線に置き換わる。言い換えれば映画館でカメラが存在を消したとき、観客は決して誰かがカメラを使って撮影した映像を見ているのではなく、スクリーンにある世界をそのまま見、監視している気分になるのである。観客が鑑識になりきって犯人探し――観客ごとのそれぞれの映像解釈――を始めてしまうのは構造的に正しい。

ハネケの意図がそういうところにあったとして、実際にそういう映画を作って、観客を完全に牛耳り思い通りに操作できてしまうのは、鮮やかとしか言いようがない。彼が『隠された記憶』で見せた監視カメラ風の映像は、定点からレンズの方向にある風景を見つめているだけに見える。その映像はどこまでもプレーンなはずだが、数々の疑いをほのめかす情報が周到に仕込まれているのだ。だからそれを見る夫婦は映像にやましさを刺激する特別な意味を付け加えたし、さらにそれを見つめる観客はそれぞれの映像解釈を強いられた。またジョルジュのやましさが喚起した記憶映像と思われる箇所なども、夫婦に送られてきたビデオ同様のカメラワークで描かれていた。最終的には映画全体が、一貫した抽象的な視点で描かれ、上映時に観客が意味が生み出すようなジェネリックな構造の中に落とし込まれていく。ハネケの手際のよさに感服するばかりだ。

ピアニスト「衝撃のラストカット」で目を皿のようにしてスクリーンを見つめた観客はハネケの罠にまんまとはまっている。仮に私のように犯人がわからなかったとしても彼の意図を理解したと言えるだろう。あのカットの重要性はあそこに決定的な事件の真相が映っていることではない。透明の監視カメラが誰の意志とも無関係に、そこに何が映っているのかを問題とせずに、ただいつもそこを映し続けているという恐るべき事実が宣言されているのである。そしてもしかしたらそこには犯人の姿が映っているかもしれない。だからこそ私たちは犯人を捜すことができる。そして犯人は見つからないのではない。見つかってしまっては全てのこの映画の試みが台無しなのだ。あくまでも何も隠さないし何もクローズアップしないありのままの世界がスクリーンに広がっていて、ちょっと不安で疑わしいだけの果てしない映画。

[2005仏=オーストリア=独=伊/ムービーアイ=タキコーポレーション] [監督][脚本]ミヒャエル・ハネケ[製作]マルガレート・メネゴス[撮影]クリスチャン・ベルジェ[出演]ダニエル・オートゥイユ/ジュリエット・ビノシュ/モーリス・ベニシュー/アニー・ジラルド/ベルナール・ル・コック/ワリッド・アフキ/レスター・マクドンスキ
GW ユーロスペース他順次ロードショー配給:ムービーアイ+タキ・コーポレーション
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