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---------------------------- 2005/05/01 管理人

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世界の中心で、愛をさけぶ 〜世界の中心から雨は降るのか〜

世界の中心で、愛をさけぶ スタンダード・エディション仮にまったくの日常というものの存在を盲目的に信じたとして、例えばそれを白と設定します。とするとこの映画の中には白い余白は残されてはいません。登場人物のほとんどはいくつかのファクターによって常に日常から引き剥がされています。偏見的な日常と比較して無菌室という場所などは非日常的空間の最たるものであると私は思います。ここで完全なる非日常を黒色とします。人間においてこの黒色の代表は死です。白と黒のグラデーションの中で進行していくこの映画の位置はだいたいかなり黒いグレーの中にあります。その全体のグレートーンを保証しているものは雨雲(台風)です。単純計算で一年間に一回台風と遭遇するとして、十七年でその生涯を終えるとすれば、死が完全な黒なのですから、十七分の一の非日常性が彼、または彼女に与えられるのです。

台風の到来から始まるこの物語において、それによってわれわれ観客も朔太郎も異次元へと入っていくのです。この台風の雨雲のグレーを基調にさまざまな非日常が存在します。例えば葬式、島、空港、無菌室、そしてオーストラリアなどがこれにあたります。この映画では永遠の、それが瞬間的なものであったにしろ継続的なものにしろ、愛は非日常的異次元にしか存在しません。永遠の愛を体現している人物として山崎努が挙げられますが、彼は写真館というこれまた非日常的な空間に生きるという方法によってのみそれが維持できるのです。彼が写真館から出る場面もありますが、台風と葬式という非日常的ファクターがそれを許しているのです。そこで山崎努は傘もささずにびしょ濡れです。この映画においてはまた雨を浴びるということは重要なのです。

この映画のクライマックスは亜紀と朔太郎がオーストラリアへ行こうとする場面でしょう。結局それは達成されません。世界を一瞬で非日常に変える台風、いったんそれは病院と空港という非日常的空間同士をつなぐ、糊のようなものとして作用します。が、皮肉にも台風によってその行為が阻まれるということはどんなに非日常的な要因が彼ら二人を後押ししても白血病という非日常には勝てないということなのでしょうか。しかし最後に亜紀は世界の中心(オーストラリア)にたどり着くことになるのですが、そこでオーストラリア人(アボリジニ?)がこんな様なことを言います。「我々は死者を二回埋葬する、一度は肉体を。二度目は骨を。そして彼らは大地へ還り世界の中心へ行くのだ。」まあ一字一句同じではないので正確には劇場でお確かめください。人が死んでも愛は残るのかといった台詞もありますが、もしも死後に愛が残るのであれば、たくさんの人の愛情が骨と地中へ浸透して世界の中心を通過し、水蒸気となって上昇し世界中に雨となって降るのですから、あの時の台風が二人の愛を保証していたのは当然のように思えます。そう思えば今年は台風がちょっぴり楽しみになりませんか?

世界の中心で、愛をさけぶ 公式ホームページ
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[2004/日本 東宝]
[監督][脚本]行定勲[製作]本間英行/市川南/春名慶[原作]片山恭一[脚本]坂元裕二/伊藤ちひろ[撮影]篠田昇[音楽]めいなCo.[出演]大沢たかお/柴咲コウ/長澤まさみ/森山未來/山崎努/天海祐希/杉本哲太

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