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ビッグ・フィッシュ/KILL BILL Vol.2  視線の在処

キル・ビル Vol.2劇場、前方にあるスクリーンを見つめていたはずの私の視線がまるで呆けていて曖昧だったのではないかと疑いたくなる。それほどこの二本のアメリカ映画はその内部に向けられた視線の有様を、一方は幻想的なほら話で、もう一方は日本刀の鋭利な切先で観客に突き付ける。大風呂敷という名のスクリーンは観客の視線から身を翻すように「視線の在処」をフィルムの内に見出しつつ、我々を安全な場所にいる観賞者でいることを許さないだろう。

ビッグ・フィッシュ理解され得ぬ者の物語を語ってきたとされるティム・バートンの新作『ビッグ・フィッシュ』は現実離れしたほら話ばかりする父親とそれに嫌気がさした息子との和解の物語だと言えるかもしれない。ならば、本作で理解され得ぬ者とは誰のことなのか。それはアルバート・フィニー演じる父エドワード・ブルームなのではなく、息子のウィル・ブルームであり、彼だけが父親のおとぎ話についていけない。エドワードの良き理解者であるジェシカ・ラング演じる母親やフランス人である彼の妻はそんなウィルを寂しげな表情で見つめることになる。たとえエドワードへの理解がある種の諦念を含んだ寛容性に満ちたものであっても、それすら感じることが出来ない息子ウィルの方こそが無理解の視線に曝されている。そしてウィルはそれらの視線に抗うように自らの視線を二つの方向へ向けることになるだろう。一つは真実を知りたいと父や母を問い詰めることや若き日のエドワードを知る女性を訪ねるような行動に見られるこのフィルム内におけるいわば「現実」であり、もう一つはエドワードが語る「ほら話」の世界である。つまり、ウィルは自分と同じ時間・空間を共有する登場人物達と視線を交わしながらも、観客のみが見つめているはずのユアン・マクレガー演じる若き日のエドワードが活躍するほら話の世界=映像をも見ているのであり、映像はウィルの視線によって語られているのである。それは父親を見舞った後、ウィルが幼い頃使っていた子供部屋を覗くカットに続き、前触れなくユアン・マクレガーが登場するカットが繋げられていることにも見て取れ、また、エドワードの葬式に参列する人々を見てウィルが何かに気付くような表情を湛えるのは我々、観客と同じ映像をウィルが体験していたからに他ならない。
ウィルの視線がフィルムの視線と交わることは、「現実」、「過去」、「ほら話」へとカットが交錯するこの作品の構造上の必然でありまたラストの親子の和解へとビッグ・フィッシュの円環が閉じられるための必然でもあるが、同時に観客の視線が危うげに平行と交錯を繰り返させられていることでもある。『ビッグ・フィッシュ』の物語が締め括られた時、我々は自身の記憶=映像へと視線を向け得ることを了解する。「人生はおとぎ話のようなもの」だけではなく、「人生は映画のようなもの」でもあるのだ。

キル・ビル Vol.1『KILL BILL Vol.2』では視線の交錯が殺意の運動へと変貌する。掠るだけで血飛沫が噴出しそうな日本刀の切先が拮抗しあう様は、視線=日本刀となり、また視線>日本刀へと変容していく。『Vol.1』ではむしろ日本刀こそがアクションのスイッチであり、一度押されれば、ユマ・サーマンは青葉屋なる料亭の中央に都合よく置かれたステージで100人切りを果たすまで血糊にまみれながら舞い踊り続けることになる。日本刀の導き出す血塗れの舞踏は復讐を果たすまで止めることがないかのような印象を与えられた前作は映画のダイナミズムから漂流し、映像の外連(けれん)に終始していた。しかし『Vol.2』の日本刀は血を味わうことはない。刀は刀と突き合わせられ、殺意の漲る視線も触れ合うことになる。やがて勝負は刀で相手の四肢や肉体を切り落とすことによって決するのではなくなり、如何にして相手の視線を無効にするかという点に収斂していく。だからこそバドがブライドを生き埋めにした時、懐中電灯を持たせたことが彼女の息の根を止められなかった要因になり、ダリル・ハンナ演じるエル・ドライバーは唯一、残された片目を抉り取られなければならなかった。そして、復讐はビルが視線を外した瞬間に完遂される。『Vol.1』でわざわざ服部半蔵に作らせた日本刀も相手に致命傷を負わせることなく、結局、ブライドはクンフーの必殺技で彼の鼓動を止める。ビルはブライドと会話し、椅子から立ち上がると彼女に背を向け五歩歩いたところで絶命してしまう。その時、二度とブライドとビルの愛憎に満ちた視線の切り返しが映し出されることはないと思い知らされ、物語は幕を閉じるのだ。
『KILL BILL』への視線は緊張という強度を孕ませて、我々へ撥ね付けられる。ならば、観客は反す刀で斬りつけられてしまわないよう、物語時間軸の捩れも途絶も乗り越え安易にタランティーノの嗜好する映画への目配せへと陥るのでもなく、ブライド親子が劇中で『子連れ狼』を見るような同じ方向への視線、愛情の視線を勝ち得ることがスクリーンを見つめることに繋がると自覚するのだ。それでこそ、『KILL BILL』はラブ・ストーリーたり得る。

「視線の在処」はフィルムにしっかりと焼き付けられている。ティム・バートンの才能とクエンティン・タランティーノの努力を短絡的に賞賛出来るはずもなく、私の視線はどこに向けられるべきか、煩悶を繰り返す。「映画」に向けてみよう。胸を張って応えられずとも、「映画」は人生と殺意と愛情に満ち溢れている。そして、「映画」の記憶に立脚した現在にこそ私の「視線の在処」があるはずだ。

ビッグ・フィッシュ ホームページ
KILL BILL Vol.2 ホームページ

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ビッグ・フィッシュ | ★映画覚書★  女子大生gajinのやさぐれ映画日記。『セントラル・ステーション』 UP! | 2004/12/21 2:41 AM
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