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---------------------------- 2005/05/01 管理人

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ミスティック・リバー

ミスティック・リバー 特別版 〈2枚組〉イーストウッドにとって、地面は些か重要であるように思える。それは土着という言葉には容易に換言され得ないものであり、また大文字で始められる固有名詞を持ち得る意味では関連付けられるかもしれない、そんな地面である。一考してみれば、彼のフィルム群は地面との密接な共犯関係をとっている。今日になってイーストウッドの代名詞として西部劇を語ってしまうのは軽薄であるかもしれないが、その西部劇にあっても、地面が露わにする土地がなければ成立しない。つまりはパリや東京、更に言えばニューヨークやラスベガスでは西部劇は撮り得ないのであり、舞台としての地面が我々に迫るのだ。そして地面から乖離していく『スペースカウボーイ』、サバナという土地の物語『真夜中のサバナ』も然り。また、『恐怖のメロディ』から多用されるイーストウッド作品の特権的な空撮は優雅で壮大な映像を演出する為ではなく、地面をそのフィルムに捉える試みではなかったか。地面は、それがコンクリートジャングルと言われる都会であっても壮麗な山脈の連なる大地であっても、人々の営みが立脚する生にとって始源の場であり、一方で我々が還り着く死という終焉の場でもある。『ペイルライダー』の採鉱者達が彼の土地で生き続けようとするのも、『真夜中のサバナ』で墓地がそのフィルムに始まりと終わりを与えているのも、地面が捉えられその両義性が紛れもなくフィルムに固着させられているからだ。

『ミスティック・リバー』の地面は淀み、発露の場として焼き付けられる。全ての悲劇は地面から始まる。少年時代のジミー・ショーン・デイヴは、ボールが空を舞ってしまう野球ではなく地面と接触しながら転がるホッケーの真似事をして遊び、悪戯と度胸試しにと自らの名前を舗装中の歩道へと刻み付けた時、デイヴは車に乗せられ、その車は地面を滑っていくかのように走り去りデイヴを連れ去っていくだろう。子供達の生としての戯れが低位置からのカメラによって映し出され、デイヴの監禁という悲劇は地面を横滑りしながら加速され発露する。またジミーの実娘ケイティの遺体は、死の運命が淀み満ちているかのような古い熊の檻に横たえられ、カメラは真上から彼女と彼女を包む窪みと枯葉で埋め尽くされた地面とを捉える。終焉の場として決定的にフィルムに焼き付けられた地面はあらゆる悲しみを包括することなく、ただただ見る者へとこの事実を曝け出すことしか出来ない。だがイーストウッドのこうした俯瞰の視線が超越的視線に陥ることがないのは果たしてどういう事態なのか。この答えを導く為に、今一度思い出さなくてはならないのはケイティの遺体を捉えた視線が宙へ巻き上げられたということだろう。その悲劇の凝視に耐えられなくなった故か、また祈りを捧げる為にか、クレーンの俯瞰による視線は空へと投げ出される。この瞬間、我々が感じるのは更に上位にあるはずの神の存在ではなく救済への希望でもない、それは虚ろな虚空へと晒されるフィルムの過酷さに他ならないのだ。そしてこの過酷さは決して地面の両義性に由来するものではない。それは地面と空、水面という対比に、否、比べられることのない、そうすべきでない対置によって映し出されている。

ミスティック・リバーホームページ
[amazon]ミスティック・リバー

フィルムの冒頭ではクレーンで上昇しながらボストンという地に立ち並び川と寄り添ったイーストバッキンガムの街並みを、やや俯瞰気味で映し出している。『ミスティック・リバー』の粗筋を知る者にとってこの風景は少しばかり象徴的にこれから起こる悲劇を匂わせてしまうかもしれないが、視線は地面と水面をスクリーン上に並べて見せた後、くたびれたテラスで会話をする父親達に戻される。彼等に声を掛けるジミー達はテラスの側から映されるのだが、その様は地面に立つ子供とテラスという宙吊りの場で野球の話に興じる父親達として対置されている。地面とは異なるテラスという場には生も死も訪れはしない、宙吊りの場でしかない。それは25年後のジミーとデイヴが同じようなテラスで語らうシーンを見ても明らかだ。ケイティの死を実感するジミーと過去の悲劇を払拭しようと罪を犯してしまったデイヴが、生も死も容認しない宙吊りのテラスに身を置くことは必然である。宙吊りのテラスから、デイヴは死の瞬間、川辺に追い詰められることで終焉の地面に戻り、ジミーは全ての報復を終え、あの少年時代に名前を刻んだ歩道に腰を掛けながら疲弊と精気を宿した表情を湛え立ち戻ることになる。彼等は生と死、そのどちらかを選択せずには地面に戻ることは出来なかった。
あからさまに地面が発露と生死を要請するならば、この『ミスティック・リバー』と名付けられたフィルムに水面は何を露呈させるのか。何も晒すことはない、むしろ水面は全てを覆い隠し、隠蔽するものとして地面とは徹底した差異を纏うことになる。近作のイーストウッド作品にも水面は姿を見せていたが、それは生死の境界として、生死の淀む表情として地面の延長線上に映されていたに過ぎない。『トゥルー・クライム』の死刑囚は水辺に佇む刑務所に収監されており、彼の命は水面によって曖昧な場へと置かれていた。また『ブラッド・ワーク』に至っては、心臓の移植手術によって生き延びたイーストウッド演じるマッケーレヴはクルーザーで隠遁生活を送っており、曖昧な水面は彼と彼を追い詰める犯人との同居を許し、仕舞には水面を克服し滑走するクルーザーの中で新しい家族との出発を演出してしまうだろう。だが『ミスティック・リバー』の水面はこれほどまでに寛容な姿は見せず、静かにたゆたっているだけだ。そこに沈んでいるはずの1000個のボールも「ただのレイ」もデイヴも見せることなく、水面は全てを包み隠す。記憶も死も何もかもを飲み込んでしまう水面はまるで何も起きなかったこの物語のようにカメラを水中に潜り込ませることを拒み、淀みすらもひた隠しにする。カメラは加速する空撮と共にその水面へと視線を滑らせ、やがてその視線さえも水中へと引きずり込まれるようにスクリーンは暗転するだろう。

このフィルムを目にした者は虚空へと宙吊りにされ、生死の発露する場へと佇まされ、やがて映画館では存在するはずのない全てが隠蔽されるほどの暗闇へと導かれてしまう。だがしかし、このフィルムの恐ろしさはこの曖昧な体験に還元されない。これまでのイーストウッド映画が第二次世界大戦以後の「崩壊に曝された顔」を、世界の崩壊をその地面に露呈させていたのなら、9・11以後の崩壊過程が隠蔽されている世界を映し出そうとしたのがこのフィルムではないのか。いや、フィルムにはその隠匿されている崩壊が映すことの出来ないという限界に必死に抗っているのがこの『ミスティック・リバー』だ。足元の地面を映し出すこと自体、光の粒子を側面からもう一方のスクリーンという側面へと映写する光学的な映画のシステムに反抗する作業であり、撮影した全てを曝け出すことしか出来ないフィルムとスクリーンという面に隠匿の水面を映すことは映画の反動性をも超え、徹底した映画への抵抗と成る。映画への抵抗=「世界」への抵抗。イーストウッドは彼岸で自らの踏み締める地面から小石を拾い上げ「世界」という水面へと投げ入れた。水面は歪な水飛沫を上げ、円と矩形の波紋を広げる。その様子をカメラは撮り続けた。それが『ミスティック・リバー』というフィルムだ。やがて、水面は何もなかったかのように静けさを取り戻し、揺らめき続けるだろう。

[2003米/ワーナー]
[監督][製作]クリント・イーストウッド[製作]ブルース・バーマン[製作]ロバート・ローレンツ/ジュディー・G・ホイト[原作][出演]デニス・ルヘイン[脚本]ブライアン・ヘルゲランド[撮影]トム・スターン[出演]ショーン・ペン/ティム・ロビンス/ケビン・ベーコン/ローレンス・フィッシュバーン/マーシャ・ゲイ・ハーデン/ローラ・リニー

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この記事に対するコメント

投稿ご苦労様です。アイガーサンクション(山)で、満身創痍、宙ぶらりんでロープを切るイーストウッド(和訳:東森、出身:ウエスタン)の雄姿を思い浮かべて読みました。つくづく彼は重力の申し子(謎)なんだなあと思う次第です。先日リバー(川)のことばかり考えて鑑賞したので、地面の話をされると再見の衝動に駆られます。

イーストウッドのリンクを補充しておきます。
イーストウッド非公式サイト
http://www.clinteastwood.net/
イーストウッドが経営するレストラン(ダーティーハリーバーガー有り)公式サイト
http://www.hogsbreathinn.net/
オールシネマオンライン
http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=219
マサキ杏平 | 2004/03/27 2:38 PM
お疲れ様です。そうですね、イーストウッドが「重力の申し子」だというのは“言い得て妙”な表現だと思います。ただ彼の恐ろしいところは、その重力から解放されようと企む映画を撮り上げてしまうことかもしれません。『スペースカウボーイ』なんて作品もその一つかなと。彼の「重力」は「運動」へのアンチテーゼのようにも思えます。そしてこの作品では「重力」が可視化され「地面」へ、フィルムへと焼き付けられていったところが素晴らしいのではないかと感じていました。「再見の衝動」を感じて頂けたことは大変嬉しく思います。また、リンクの補充もありがとうございました。これからも精進いたします。
田村 博昭 | 2004/03/28 12:44 AM
「崩壊にさらされた顔」が引用なら、固有名を書かねばならぬのではないか。
kenji | 2004/03/29 9:49 AM
手厳しいコメント一丁入りましたー。
インターネットの要はリンクです。想像力が膨らむリンクを作ることは面白い文章を書くことよりも重要です。ソースが書籍である場合はそれの入手法へのリンクを貼ることが建設的かと思われます。レッツアマゾン!
またお気づきの際はコメントでのリンク補充を頂けると幸いです。
(カタイ。カタイぞ、このサイト!)
マサキ杏平 | 2004/03/29 1:20 PM
はい、ご指摘ありがとう!そうですよね、まだこの文章が公開されているということに少し自覚が足りなかったと反省。

「崩壊に曝された顔」というのは
丹生谷貴志著『ドゥルーズ・映画・フーコー』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791754638/qid=1080662091/sr=1-3/ref=sr_1_10_3/249-1573538-4276341
からの引用であります。失礼しました。
田村 博昭 | 2004/03/31 1:18 AM
<インターネット講座>
アマゾンの商品はASINという番号で管理されています。リンクを貼るときはURLのうちASIN番号まで書けば商品にリンクされるようです。それ以降のごちゃごちゃは書かなくても大丈夫です。
どうやらこのホームページデザインではコメントで貼り付けたURLが長すぎるとデザインが乱れるらしいです。


http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791754638/
マサキ杏平 | 2004/03/31 2:47 PM
この記事に対するトラックバック
Clint Eastwood 少年の頃からクラブでピアノを弾き糧を得ていたというクリント・イーストウッドは大のジャズ好きです
ジャズ・フリークのクリント・イーストウッド Clint Eastwood | Audio-Visual Trivia for Movie & Music | 2005/02/12 8:26 PM
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