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随分前から予告編が流れていました。まずはじめに私が見たのは、『ハウル』がおばあさんと若者の恋物語であるということ。そして次のバージョンでは、そのおばあさんが本当は、魔法の力でそういう姿にされてしまった若い娘だということが明かされていました。この予告編を見たとき私は正直がっかりしました。おばあさんと若者が見た目のギャップを乗り越えて恋をする、などという物語は凡庸すぎますし、そのおばあさんが本当は若い娘であるならば、結局は若い男女の恋物語と何も変わらないではないか、と。
それで私は『ハウル』を見る以前から早とちりをしてしまったわけです。「ああ、これはきっと宮崎駿お得意の、擬人化と象徴表現だ」と思いました。『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』で登場した「王蟲」「トトロ」「でいだらぼっち」「ハク」といったキャラクターたちは、みんな自然の意思の擬人化、象徴化の表現だったと思います。いずれも本来不可視のものが、人間と接触し会話し理解しあうために、人間に見える形で描かれた姿です。そして『ハウル』も見えないものに本質的な真実性を見出して描こうとする点で、それらの過去の作品と共通するテーマだと言えます。けれども私はこれまでの作品のそういう描き方は既に限界にあると思っていました。見えないものの素晴らしさを本当に描ききるには、見えるものへの徹底的な批判がなければダメなのです。ですから見えないものを見える形に具現化するのは、視覚的でしかありえない映画表現に寄り沿った、非常に有効な手立てだったと思うものの、同時に見えることに縛られ続けてしまうという限界を示していたのではないかと思うのです。
例えば超巨大な「でいだらぼっち」がダイナミックに崩壊再生したののように、本来見えないものの可視化は映像的なカタルシスを生むでしょう。また「ハク」が川の神様の具現化だと気づかされることで、それまで見てきたものが全て本来の見えない存在に還元されていくようなのは、感動的な体験でした。しかしそれら、象徴化擬人化による映像化は、それを再び元通りの不可視な本質に還元できない、不可逆なやり方ではないかと思うのです。つまり「でいだらぼっち」や「ハク」が表す象徴的な意味は、どうしてもその見た目に縛られたものであって、本来の不可視なものが限定的に現れているにすぎないのではないでしょうか。私は『千と千尋の神隠し』までの一連の作品を見て、宮崎駿は歳をとったと感じていました。彼の映画で共通して描かれている「自然」や「人間の道徳」や「若者への希望」が、時代を追ってどんどん説教くさいものになっていったような気がします。それは本質を可視化して描く手法が限界にあって、さらにその手法にこだわって徹底したことによる、世俗化や複雑化ということが考えられます。まるで老僧が、膨大な言葉を費やして説教し、本来言説不可能な真理を説明しようとするように、「伝えようとする意思」だけが空回りしてしまう「老い」の姿がそこにあったような気がしたのです。
しかし『ハウルの動く城』は全くの新境地といってよいでしょう。
物語全体の構成を考えると、非常にテンポが速いことに気がつきます。特に後半は次々にアクションが展開し、各々のアクションにどんな意味があるのか、考える暇がありませんでした。アクションによって問題が次々と提示され、それらはことごとく判断不能のまま放置されます。魔法の秘密とは何か。どこの国の飛行機が爆弾を落としているのか。荒地の魔女はなぜ力を失ったのか。どうしてハウルは命を狙われねばならないのか。どうしてサリバン先生サリマン先生は結局戦争を終わらせるのか。これらの諸々の問題は(私の理解力の足りなさのせいかもしれませんが)、すばやい場面展開の中で意味が解明されるまもなく過ぎ去り、宙ぶらりんのままラストシーンまで持ち越されます。特にソフィーにかけられた魔法について、なぜソフィーは場面によって姿を変化させるのか、そして最後に魔法が解けたのかどうか。わからないままです。
魔法がソフィーをおばあさんに変えたといっても、スクリーンに映る彼女の姿は単なるおばあさんではありませんでした。時には若く、時には老いていて、ソフィーの姿はカットによって非常に流動的に扱われるのです。ですから、きっとソフィーにかけられた魔法は、おばあさんになってしまう魔法などではなく、見た目の姿が意味を失う魔法だったのだと思います。もしかしたら、彼女の見た目は、彼女の内面に対応して変化していたのかもしれないのですが、私にはその対応関係がよくわかりませんでした。いやそれよりも、宮崎駿は全く自由にソフィーの姿を描いていたのではないかと思います。めまぐるしく見た目を変えるソフィーを見て、私は彼女がいかに描かれているか、どのような姿に見えているのか、混乱し、結論としてその見た目には一切意味がないのだと解釈するほかないのです。もはやソフィーの姿はソフィーの内面の象徴などではありません。宮崎駿は両者に対応した意味を見出すことを放棄させるために、猛烈な速さで場面を展開し、ソフィーの姿を全く自由に描いたのではないでしょうか。
ところで見た目と意味の対応関係を破壊する意図は、その他にも見られます。例えば荒地の魔女が力を失ったとき、彼女が「おばあさん」と呼ばれ、つぶらな瞳の可愛らしい姿で描かれたのを見て、私はつい彼女が善人になったものと思いました。しかし実際に力を失った魔女の行動を見ると、力を失う前と本質的な違いが見られません。結局彼女は善人の姿でなお、タバコをふかし、ハウルの心臓への執念を見せるのです。また、初め巨大にして複雑怪奇な見た目の城が、最後には車輪とベルトのひとつづつという、非常にシンプルな構造を露わにしたようなことも、同じく理解して構わないのだと思います。こんな風に、先入観を裏切るような描き方は随所にありました。
さて、ラストシーンで、一体ソフィーの魔法は解けたのでしょうか。きっともはや魔法など意味を成していないはずです。『ハウル』の映像は描かれる対象の見た目の問題とは無関係に、美しいと思われるまま全く自由に描かれたものであって、何か言葉にならないものを描こうとした象徴のようなものではありません。絵に何らかの対応的な意味を見出そうとするのを拒むことで、宮崎駿は真の自由な映像表現を勝ち取ったといえると思います。ですから、ソフィーの魔法が解けたか否かという問題は、ラストシーンにおいて、いや魔法がかけられた時点で、これまでの宮崎駿の擬人化と象徴的表現を道連れにして、意味がなくなっているのだと思います。
ソフィーは最後にとても美しいキスをします。そしてキスによって様々な魔法が解け、何らかの飛躍があったうえで戦争まで終結してしまいます。私は以前にも書きましたが、キスには、それまでの脈絡と無関係に、全ての宙吊りになった事柄や矛盾を止揚して、ハッピーエンドをもたらす力があると考えています。『ハウル』は映像とそれに纏わる意味を分断し、見た目にとらわれない本質を究極的な表現方法で描くことに成功しました。そして映像表現としての映画と、不可視の真実との矛盾を前にして、もはやキスをするほかないのです。これまでの宮崎作品にはキスらしいキスは見られなかったのが一転、本作での堂々たるキスは、宮崎駿にとってこの新境地でなければできなかった表現なのです。そして全てを一挙に解決してしまうキスの美しさ(それを愛などと陳腐に表現してはならない)、キスをするソフィーの後ろのある景色の美しさこそ、宮崎駿が昔からずっと描き続けてきた映画の美しさであり、言説不可能な真実の表現なのだと改めて気づかされます。
ハウルの動く城 公式ホームページ
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[2004日本/東宝][監督][脚本]宮崎駿[製作]鈴木敏夫[原作]ダイアナ・ウィン・ジョーンズ[音楽]久石譲[声]倍賞千恵子/木村拓哉/美輪明宏/我修院達也/神木隆之介/伊崎充則/大泉洋
この記事に対するコメント
「ハウルの動く城〜キスの魔力〜」を読まさせてもらいました。私はまだ見ていないのですが、これはすばらしい批評だと思いました。大体のストーリーは知ってますが、聞くところによるラストの展開は、すべての女性の共通の夢だと思っています。(あくまで個人的に、ですが)ソフィーのキスで全てが解決していくストーリーを、童話みたいで宮崎駿監督も落ちぶれたもんだとか、そういう書き込みをしている人がいました。人によって受け取り方、感じ方はさまざまだと思いますが、私はそうは思いません。まだ見てもないのにこんなこと言うのはなんですが、すごくマサキさんのおっしゃることが分かるような気がするのです。ますます見たくなりました。キチンと書かれた批評、どうもありがとうございました。
レス遅れてごめんなさい。帰省していました。
今年もよろしくお願いします。
もう一度観たくなりました。僕自身もそうでしたが、今回の作品を否定的に語る人が多いと思ってましたが、マサキさんの批評、とても面白く、自分の視点も批判されました。特に一連の宮崎駿の映画からの流れ、キスの魔力、納得できるものでした。また、興味深い批評楽しみにしてます。ありがとうございました。
先日産経新聞で、ハウルの謎を全て解く、という記事を見ました。そこではアニメに詳しい方々が、ハウルの描写を仔細に検討して、拙記事における所謂「対応的な意味」を明らかにしていました。なるほどと思う内容でしたが、そこで解明された「意味」を見ても、全然面白くないんですよね。
楽しみ方はいろいろあると思いますし、それでこそハウルは人を集めるいい映画なのだと思いますが、私にとって、ファーストインプレッションで感じた、「わけがわからない」にも拘らず「美しい」という感覚が、この映画の何よりの美点に思えました。映像が、それが紡ぎだす物語の力ではなく、本来もっている映像そのものの力によって、爆発的な美しさを生んだことが、宮崎駿にとってのエポックだったと思います。
また是非いらしてください。
いやもちろん、宮崎アニメにおいてかなり今更な指摘であることは重々承知、この映画の重要な論点ではないのでしょうが、今回はどーにも気になってしまいました。このモヤモヤを打ち砕く反論、だれかにしてもらいたいなあ。
もうちょっと待ってください。考えます。