KINEMAtograph/Mirror

KINEMAtograph[キネマトグラフ] は移転しました。
ここはミラーサイトとして運営しています。(時々更新します)
恐れ入りますが、http://kinematograph.net/ へブックマークの張り替えをお願い致します。
(記事へのコメント、トラックバックは停止しています。ご意見ご感想はこちらで承ります。)
---------------------------- 2005/05/01 管理人

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | permalink | - | -
<< サイト移転のお知らせ | main | 『カナリア』 手と家族 >>

『バッド・エデュケーション』 劇的な映画

[本]バッド・エデュケーション映画がこれだけ劇的なものであったことを忘れていたのかもしれない、『バッド・エデュケーション』は映画を見に来たはずの観客たちにそんな単純なことを痛烈に思い知らせてくれる。

つまりは現実のほうがどれだけ虚構じみていて劇的な出来事に満ち溢れているか、考えてみる。私たちもニュースを少し見てみれば実際の事件が物語に摩り替わり、今や余程、映画が語る物語よりも衝撃をもたらしてしまうことに気付かされるだろう。だからこそ劇化していく現実の中で映画を撮り続けることがどんなに困難なことであったかは想像に難くないが、この問題は彼にとっても今に始まったものではなかった。

キカ <ヘア無修正版>KIKA』の中でビクトリア・アブリル演じるアンドレアがホストを務めるTV番組「今日の最悪事件」はそうした現実をアイロニカルに、戯画化したものであるだろうし、『バッド・エデュケーション』でフェレ・マルチネス扮する映画監督・エンリケが次作のネタにしようと読んでいる実際にあった事件の記事(凍死したまま高速を走り続けたバイカー、ワニの檻へ身を投げた女性)は劇化する現実を証明している。そんな劇化する現実にアルモドバルはフィクションで抵抗し続けた。

私の秘密の花ここで劇化することをフィクションと言い換えてみれば誰でも合点のいく困難さが現れてくる。フィクション化する現実にフィクションで立ち向かうというトートロジーのような抵抗の形は『KIKA』までの作品には明白に表れているだろう。キッチュな装飾の前に展開される喜劇とも悲劇ともつかない物語がアルモドバル印の映画だった。それは自分の映画が私的に、または史的に見られることを避ける手段だったかもしれない。舞台はマドリードであっても決して町並みは映さずにミニチュアの、張りぼての建物が映される『KIKA』、フランコ独裁政権崩壊後のスペインでカメラを回し始めた映画作家というコンテクストを背負い込まされないようにアルモドバルは作品を撮っていた。しかし彼の作品も緩やかに変化を見せ始める。『私の秘密の花』では彼のユーモアが少しばかり身を潜めメロドラマとしての映画が大胆に撮り上げられ、『ライブ・フレッシュ』ではそれまで頑なに避けられていた史的なマドリードがスクリーンに現れることになる。

一見、実際的なロケーションによるメロドラマはフィクションによる抵抗を捨て去ったかのように思えるかもしれない。しかし、ここでアルモドバルはフィクションを映像と音楽と物語による映画の次元から、映画による映画の思考へと引き上げたのではないだろうか。『私の秘密の花』以来、頻繁になる映画の引用(ジョージ・キューカーやルイス・ブニュエル作品など)はアルモドバルの作品が現実とより拮抗し始める兆候となっていく。

ライブ・フレッシュ『バッド・エデュケーション』はヒッチコックのようなタイトルバックに始まり、エンリケとイグナシオのメロドラマとフィルム・ノワールへの目配せとともにサスペンス映画へと雪崩れ込んでいく。一人三役のガエル・ガルシア・ベルナル、マノロ神父という一役は二人の役者が演じ、役者と共に物語は絡まりあい混乱していく。ベルナル演じるアンヘルはファムファタールのようにエンリケやイグナシオやベレングエルを翻弄し、そして『バッド・エデュケーション』の登場人物、誰もが映画的な役割を担う。それはエンリケの撮影する映画内映画「訪れ」と同じように誰もが映画的で、しかしガリシアの風景のように現実の人間たちであり、現実と同程度、劇的な人間関係が示される。フィルム・ノワールの引用、サスペンスの形態はフィクションを現実に近づけるのではなく、フィクションをフィクションのような現実に叩き付ける為の装置となる。そして物語は喜劇が悲劇に連なりサスペンスが盛り立てる不安はメロドラマが語る一つの愛の形へ転化していく。しかし、最後まで真実が解き明かされることはない。そんなに簡単に真実は顔を見せてくれないのだ。結局、誰の言っていることが本当で、嘘なのか分かることもない。ただイグナシオの最後の手紙を受け取ったエンリケが嗚咽を漏らす姿が真実として描かれる。

あらゆるコンテクストも何処吹く風で大きな流れの中に漂い時には頑なに留まり続ける、そういう強さがペドロ・アルモドバルの作品にはある。それはスペインという国籍や同性愛、セックス、殺人等の劇薬的なモチーフに回収され得ない、映画の中で映画を撮り続け現実の波をいなしてしまう逞しさが彼の作品にはあるからだ。『バッド・エデュケーション』ではその強靭さ、それ自体が作品なのであって、この映画がどれほど彼の自伝的な作品であるかは観る者にとってほとんど関係ない。ラストカット、スクリーン一杯にPASSIONの文字が押し広げられるとき、この映画作家は改めて現実とフィクションそのものに宣戦布告した。

[2004スペイン/ギャガ・コミュニケーションズ][監督][脚本]ペドロ・アルモドバル[製作]エステル・ガルシア[製作]アグスティン・アルモドバル[撮影]ホセ・ルイス・アルカイネ[音楽]アルベルト・イグレシアス[出演]ガエル・ガルシア・ベルナル/フェレ・マルチネス/レオノール・ワトリング/ハビエル・カマラ/ダニエル・ヒメネス・カチョ/ルイス・オマール/ペトラ・マルチネス
Kinema | permalink | - | -

スポンサーサイト

- | permalink | - | -