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---------------------------- 2005/05/01 管理人

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『海を飛ぶ夢』 まだ生きててもいいすか?

動けないラモン(ハビエル・バルデム)。彼は患っていて、もう、ベッドから自分で立ち上がって歩くことができません。そして今すぐ安楽死ができるよう、願っています。『海を飛ぶ夢』の中で最も感動的なシーンはその彼が突然起き上がって歩き始めてしまう! シーンでしょう。ラモンは自分の力でベッドを部屋の隅に押しのけ、助走をつけて窓の外へ飛び込んでいきます。自死か? と思われたその直後、彼の身体はものすごい速度で空を飛び、山を越えて、愛するフリア(ベレン・ルエダ)がいる海へたどり着きます。しばらくして観客はそれが彼の「夢」であることを思い知らされます。そして同時に、彼の死への願いが自由への願いであることを了解するのです。

私は人が死ぬ映画はあまり好きではありません。その人の問題が死ぬ以外の方法で叶うことを願ってやみません。そして人が死ぬことでしか物語の解決方法を見つけられなかった映画は、作る意味がないんじゃないかとさえ思います。『海を飛ぶ夢』はそういう映画でした。しかし私は説得させられてしまったわけです。ラモンが死を熱望し続け、結果その望みが叶う様を見て、何とかならないものかと考えあぐねさせられながらも、結局彼が願う「死=自由」の論理を受け入れてしまったのだと思います。

フランダースの犬 完結版窓の外へ飛び出して海まで飛んでいってしまうシーンの、その速度、その美しさ、打たれました。例えば『フランダースの犬』のラストシーンのような、天使に連れられてふわふわと浮かんでいくような飛び方――もしくは死に方――ならばこうはいきません。またはある人が今の今まで生きていたはずが、シーンの変わると葬式のモノクロ写真になっているようなこと――もしくは「どこでもドア」で瞬間的にしずかちゃんの許にたどり着いてしまうようなこと――もダメです。そこには死への距離が欠けています。海へたどり着くまでに山を越えなければならない、その長い距離をまっしぐらにできる限りの速度で進む、そのプロセスを見て、「死=自由」へ向かうことの困難さと、ラモンのそれへの欲求を、理解したのです。

動くことができずにいる部屋のベッドを生と捉え、海を死と捉えれば、その間をジェットコースターのような一連のショットが結んでいることを考えると、ラモンにとっての生と死が、対立し断絶したイメージでなく、連続的に捉えられていることがわかります。また逆の解釈もあり得、むしろベッドで寝ていることが死であって、海こそが生なのかもしれません。いずれにせよこれは誰もが共感できることではないでしょう。例えばラモンと同じ境遇の患者がこの映画を観たとしたら、気分を悪くしそうです。私も同じで、あの世の死と断絶したこの世の生にしがみついている身としては、受け入れがたいものです。

その私の生への頑固な執着に切り込んできたのは、おいのハビ(タマル・ノバス)にラモンが言った一言だったと思います。「テレビが見たいならその理由をきちんと俺に説明してみろ」 ハビはたどたどしいながらもサッカーを見たい理由を説明し、ラモンはニヤニヤしてそれを受け入れました。要はそういうことらしいです。誰もがひとりひとり違った考えを持っています。そしてそれは尊重されなければなりません。ただ、単純に個人主義を守っていくと、みんなバラバラになってしまいます。必要なのは説明し、理解を求めることです。たとえテレビを見るというささやかな自由に関しても同じことです。

私は普段、自由の名の下に様々な説明を省略して生きてはいないか。反省するところが多いです。ラモンは死ぬための説明を繰り返していたわけですが、毎日を生きていくためにも同等の説明を繰り返しながらでないと問題があります。「こんにちは」って、向こうから自由が訪れてくれるはずはないのですから。

海を飛ぶ夢 公式サイト
[2004スペイン=仏/東宝東和][監督][製作][脚本][音楽]アレハンドロ・アメナーバル[製作]フェルナンド・ボバイラ[原作]ラモン・サンペドロ[脚本]マテオ・ヒル[撮影]ハビエル・アギーレサロベ[出演]ハビエル・バルデム/ベレン・ルエダ/ロラ・ドゥエニャス/マベル・リベラ/セルソ・ブガーリョ/クララ・セグラ/タマル・ノバス

付記:塩田明彦『カナリア』について

説明という点から言うと、『カナリア』は決定的にそれが欠けていたと思います。「われは全てを許すものなり」 唐突にそう言った光一(石田法嗣)の髪は銀髪に変化していました。解脱というやつなのかもしれません。それで映画は終わってしまいます。実は解脱したかどうかは問題ではありません。ヘンテコなセリフと銀髪ではエンドマークを出す理由にならないと言いたいのです。

光一が由希(谷村美月)と初めて会うシーンにしても、他のシーンにしても、台詞回しにしても、全てが唐突で、その唐突さに対する説明が足りないと感じられました(参考:nobody小峰の記事)。そして山崎裕の揺れすぎる手持ちカメラも、「仕組まれたドキュメンタリータッチ」とでも言いたくなる様な白白しさです。映画は全て仕組まれているに違いないし、唐突さも驚きを生むための映画の必須要素と言えるでしょう。しかし白白しさが漂うのは、説明不足に帰する問題であると思われます。

月光の囁き ディレクターズカット版塩田明彦とアメナーバルを比べることに意味はありません。単に私がたまたま近い時期に同じ映画館で見たというだけです。ただ私はアメナーバルを本当に演出巧者(説明上手)だと思い、昔の「うまい」塩田明彦を思い出しただけです。どうも塩田明彦は最近その「うまい塩田クン」からの脱皮を図っているように見えるのですが、どうなんでしょうか。次作では「うまさ」と「唐突さ」が両立した映画が見たいです。

文章が雑で、何言ってるんだかサッパリわからないかもしれません。ごめんなさい。とにかく『カナリア』を最後まで見てください。ひっくり返ります。

カナリア 公式サイト
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