KINEMAtograph/Mirror

KINEMAtograph[キネマトグラフ] は移転しました。
ここはミラーサイトとして運営しています。(時々更新します)
恐れ入りますが、http://kinematograph.net/ へブックマークの張り替えをお願い致します。
(記事へのコメント、トラックバックは停止しています。ご意見ご感想はこちらで承ります。)
---------------------------- 2005/05/01 管理人

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | permalink | - | -
<< 『海を飛ぶ夢』 まだ生きててもいいすか? | main | 『彼奴は顔役だ!』 記憶の証言者 >>

『ミリオンダラーベイビー』 扉への意志

ミリオンダラー・ベイビー使い慣れた扉を開く時、揺ぎ無い意志は必要だろうか。そんなことも毛頭考えぬうちに扉はきっと開いてしまう。誰でも、例えば、自分の家に入るのに意志もクソもない。何気無い体の運動と漠然とした気分で使い慣れた扉は開かれる。おそらくフランキー(クリント・イーストウッド)やスクラップ(モーガン・フリーマン)、また情熱が空回り気味の青年・デンジャーにとって扉はそういうものだった。しかし、マギー(ヒラリー・スワンク)の場合は少し違っていたかもしれない。彼女はフランキーに自らのトレーナーとなることを頼みボクサーとなる夢に賭ける強固な意志と共に、ヒット・ピット(フランキーがボスを務めるボクシングジム)の古びた扉を開く。揺ぎ無い意志と共に門を叩く者、それに少しばかりの力を貸してやる者、そして無意識に扉を開き受け入れ始める者、その立場は次第に交錯しながら扉が完全に閉められるまで映画は続いていく。

マディソン郡の橋わずかではない幾許かの時間の経過と共にそれぞれの場面はフェード・イン、フェード・アウトによって区切られ、それはまるで扉を開けた時、室内へ光が差し込み、また閉じられれば暗がりへと落込む部屋のように見える。イーストウッド組古参の撮影監督トム・スターンのカメラが陰影の深い照明によって彼らの姿を捉えることがこの映画の基調となっている。その暗い室内染みた空間でフランキーは扉を開けることに無意識でいた。だから、手塩にかけて育てたボクサー・ウィリーが自宅に訪れた際、無意識に扉を開き迎え入れると別離を言い渡されてしまう、そのような事態を彼は受け入れざる終えなくなる。もし、フランキーが自らの意志で訪れる場所があるとすれば縁を切られた娘への贖罪の為に訪れている教会かもしれない。だが、教会も彼を救いはしなかった。

許されざる者やがて、フランキー自身も強い意志と共に扉を開かなくてはならない時がやって来る。マギーとフランキーの二人に襲いかかった事故は、マギーが扉を開けることを不可能にし、フランキーにその作業を委ねることになる。フランキーは煩悶し続ける。今度こそは救ってくれるだろう教会の答えもそれは宗教的な倫理でしかない。フランキーにとっての「モ・クシュラ」であるマギーを救えるのは、最後の扉を誰にも気付かれずに開くことでしかない、そう決めた彼は夜中の病院に赴くことになる。

ピアノ・ブルース一方、最後にスクラップはデンジャーを受け入れるだろう。一貫して物語のストーリーテラーでありナレーションの主であったスクラップは扉を開く手伝いをし続けた。マギーの、フランキーの、デンジャーの助けとなったのはスクラップだった。ジムの雑用係であり、扉のないジムの一角の倉庫のような部屋で生活し、毎日、扉の開閉を見ていたスクラップだからこそ彼は押し開くことの覚悟と残酷さに薄々気付いていたのかもしれない。開閉という物語に助力しながら単眼であるスクラップは映画そのものだろう。ラストカット、フランキーは閉ざされたダイナーの扉の向こうに座っている。スクラップのいないその場所で、彼の方から開かない限り、もう二度と扉が開かれることはない。

[2004米/ムービーアイ=松竹] [監督][製作][音楽][出演]クリント・イーストウッド[製作]ロバート・ロレンツ/ゲイリー・ルチェッシ[製作][脚本]ポール・ハギス[製作]アルバート・S・ラディ/トム・ローゼンバーグ[原作]F・X・トゥール[撮影]トム・スターン[出演]ヒラリー・スワンク/モーガン・フリーマン/アンソニー・マッキー/ジェイ・バイチェル/マイク・コルター/ブライアン・F・オバーン
Kinema | permalink | - | -

スポンサーサイト

- | permalink | - | -