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---------------------------- 2005/05/01 管理人

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『メリンダとメリンダ』 人生は劇か

メリンダとメリンダ ©2005 TWENTIETH CENTURY FOX
©2005 TWENTIETH CENTURY FOX
劇を入れ子にして語るスタイルはウディ・アレンの常套手段です。それも単にストーリーの核となる劇の“内部”に劇中劇があるのではなく、核となる劇の“外側”に「語り手の劇」が配置されます。今回の『メリンダとメリンダ』で言えば、中核となる劇は言うまでもなく「喜劇のメリンダ」と「悲劇のメリンダ」のふたつの物語であり、カフェで劇作家たちがそれを語っている(紡いでいる)のが「語り手の劇」に当たります。つまりふたりのメリンダのストーリーと、それを鑑賞する私たち(もしくは監督)との間に、ワンクッション、語り手がいて、こういう構成は『カメレオンマン』を初めとする彼の他の作品でも好んで使われています。

アニーホール』では主人公の生い立ちが回想されるシーンで、幼い主人公が生活している部屋の隅で、現在の主人公がその様子を説明する場面がありました(いわゆるベルイマン)。この場合は語り手が、語られる物語の主人公本人であるパターンです。

アニーホール物語と観客との間に語り手が挟まっている構成は、私たちを幾分物語から遠ざけています。私たちはふたりのメリンダの物語に没入することを許されず、否応なしに語り手による客観的な視点を受け容れさせられます。今回のように、語り手が、語られている物語の主人公で“ない”ときには、その客観性はもっと強くなり、いわば分析的な傾向を示します。ですから『メリンダとメリンダ』には、いつもならばウディ・アレンの映画に登場するような分析医の姿は見えていませんが、その役目はカフェで語り手となっている劇作家を通して、私たちに託されていると言ってもいいでしょう。カフェの劇作家たちが投げかけている問題点――人生は悲劇か、喜劇か――は、私たちがふたりのメリンダの物語を“診る”に当たっての指針となっています。

「人生は悲劇か、喜劇か」その問いに迷う以前に「人生は劇なのか」というところに引っかかります。ふたつの物語はあまりにクレイジーです。双方ともに、メリンダが招かれざる客として扉を開けてやってくるところから始まり、結局喜劇のメリンダは扉の内側へ歓迎され、悲劇のメリンダは窓の外へ飛び出してしまいます。このクレイジーさ。このわかりやすさ。この物語としての構築性を前にして、私はまず「人生は本当にこれほど運命的なのか」と疑問を抱いてしまいました。

ウディ・アレン コレクションBOX問題以前の問題が気に掛かってしまうのは、私たちと物語の距離が遠いからだと思います。つまり物語への没入を妨げる語り手がいるからです。世の劇作家や分析医たちが、人生について運命的なストーリーを語るとき、ふとよぎる「出来過ぎていやしないか」という疑いを、私たちもまた感じてしまいます。その出来過ぎたストーリーを受け容れるならば、喜劇のメリンダの話が面白いはずです。受け容れられなければどちらも面白くないはずです。

いずれにしても、悲劇のメリンダの物語が何のためにあるのかわかりませんでした。出来過ぎた悲劇は、笑いを誘うからです。

ウディ・アレンのファンは何が好きなのか。アンチは何が嫌いなのか。どうしてウディ・アレンのシリアス物はウケないのか。どうして彼は悩めるコメディアンであり続けるのか。そうした問題の答えの一端がここにあります。

メリンダとメリンダ 公式ホームページ
[2004米/FOX][監督][脚本]ウディ・アレン[製作]スティーヴン・テネンバウム[製作]レッティ・アロンソン[撮影]ヴィルモス・ジグモンド[出演]ラダ・ミッチェル/クロエ・セヴィニー/ジョニー・リー・ミラー/キウェテル・イジョフォー/ウィル・フェレル/アマンダ・ピート/ウォーレス・ショーン
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