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---------------------------- 2005/05/01 管理人

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『愛についてのキンゼイ・レポート』 一人だけのセックス

キンゼイ1一人でセックスはできない。少なくとも、誰かの一つの体とまた誰かのもう一つの体が交わるところにしかセックスは存在しない。だが、キンゼイ博士は一人でセックスをしようとしていた。実際のキンゼイ博士は分からないが、『愛についてのキンゼイ・レポート』でリーアム・ニーソン扮するキンゼイ博士が見せたのは、一身に人々のセックスも性の秘密も映画の物語さえもすべて飲み込んでしまい肥大して腐朽しかけながらも、なんとか生気を取り戻す姿だった。

一人でのセックス、それはマスターベーションとも違っている。他人のセクシャルな部分を丸呑みし自分自身と交わること、それがキンゼイとして描かれる。冒頭、助手達にインタビューの訓練をしているキンゼイのモノクロ映像と、性欲が抑圧された少年時代、父親への反抗から生物学の教授にまでなり女学生のクララとの結婚から人間の性行動について興味を抱き研究に没頭するようになる時点までのカラー映像が平行して示されながら、やがてフィルムの色調は完全にカラーへと統一されていく。この映画が色彩を取り戻すのはキンゼイが他人と関わったからだとも、鬱屈していた性が噴出の糸口を見出したからだとも思えない。何故なら、何よりもこの映画では他人が疎かにされている。1万8千人ものアンケートに協力した人間たちはアメリカの白地図の上に無数の顔として点在させられることで処理されてしまう。また、プロポーズに対するクララの躊躇も、根深かったはずの父親との確執も、徴もないまま、劇的な瞬間を通り過ぎて呆気なく解消されてしまう。そこにはコミュニケーションの相手がいない。ただ他人の性の秘密をきっかけに自分の回想と苦悩と科学への情熱と戯れ続けるキンゼイ博士がいるだけであり、彼は他人と溶け合っているようだ。

キンゼイ2ラストシーン、疲弊の果てにキンゼイが辿り着くのは自らの研究人生の始まりである森だ。クララと連れ立っていながら微笑を絶やさない彼女はさっと画面外へと消え去り、キンゼイは一人で大木へそっと手をやる。ここでもスクリーンに漲るのは往年の情熱を取り戻したかのようなキンゼイの姿だ。一人の情熱と苦悩をその体の中で完結させる映画。だから、この映画を形容してみるなら「ロマンティックで生真面目な」というおよそセックスを扱った映画には似つかわしくない言葉が一番、しっくりときてしまう。

8月27日(土) シネマスクエアとうきゅう、シネスイッチ銀座ほか全国ロードショー

[2004米=独/松竹] [監督][脚本]ビル・コンドン[製作]フランシス・フォード・コッポラ/マイケル・カーン/ボビー・ロック/カーク・ダミコ[製作]ゲイル・マトラックス[撮影]フレデリック・エルムス[音楽]カーター・バーウェル[出演]リーアム・ニーソン/ローラ・リニー/クリス・オドネル/ピーター・サースガード/ティモシー・ハットン/ジョン・リスゴー/ティム・カリー
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